農業と、成田山新勝寺の門前町として緩やかに発展してきた成田市は、成田空港の建設を契機に国際空港都市へと変貌を遂げた。
空港開港に伴う急激な人口増加に対応するため、県は一九六八年から成田ニュータウンの造成を開始。約四百八十ヘクタールの大型開発は八七年まで続き、原野は空港勤務者を中心に約三万四千人(今年三月末現在)が暮らす住宅と商業のまちに発展。成田市自体も現在では人口十二万人を超える北総の中核都市としての存在感を示す。
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「空港の表側の市」として、多くの市民が恩恵を受ける一方で、成田空港建設には苦渋に満ちた多くの市民の協力があったことも忘れてはなるまい。
同市木の根で落花生、サトイモを栽培していた岩澤和巳さん(78)は六六年の閣議決定を耳にして、「農民を愚弄している」と憤激。当時、木の根の区長をしていたことから、反対同盟の副委員長兼行動隊長として立ち上がった。
反対運動が激しくなるにつれ、農作物の収穫が大幅に減り、食べることにも事欠いた。子どもたちの将来を考えると「空港に協力するべき」と思い、土地を手放したが、「二十六年間耕してきた農地を手放すことになった日は何とも割り切れない、寂しい気持ちだった」と振り返る。
現在は、空港内でレストランを経営する岩澤さん。「転業して苦しい時期もあったが、空港ができたことで多くの市民が潤い、よかった」と語る。
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住民との意思疎通がままならない空港公団に、地元の商店主らで構成する成田青年会議所(JC)は早期開港の主張を一転。三年後に開港を控えた一九七五年、「現状での開港は成田市の将来に大きな禍根を残す」と反対表明し、全国に衝撃を与えた。
中心メンバーの一人だった成田空港対策協議会の豊田磐会長(71)は、「『空港に反旗を翻した』と報じられ、誤解を受けることも多かった」と当時の決断に対するさまざまな批判を甘んじて受けた。
ただ、「成田は首都圏のベッドタウンとしては東京から遠すぎる。空港ができなければ、人口が減って過疎地になっていたかもしれない」と認識。「空港の能力を上げることが、今後の市の発展に大きくかかわってくる」と確信する。