「非常階段」という言葉には、何か秘密めいた響きがある。立ち入り禁止の非日常空間のせいか―。写真家は、その10階前後から逢魔(おうま)が時の東京の街を見下ろした。人々が日中、発散したあらゆる欲望をため込み、淫靡(いんび)なエネルギーとして再び放出する大都会の裏の表情。写真家ならずとも、本書を見る人の心をギュッとわしづかみにする新しい風景がそこにあった。
東京、大阪の繁華街に溢れる猥雑(わいざつ)な看板群を写した前作「夜光」(2000年、BeeBooks)に本書への予兆はあった。雑居ビルの2、3階から撮影した数点が含まれているためだ。その階数が上ったのは「被写体がある程度抽象的で、ある程度具体的に見える高さが刺激的だった」からだ。
本書の写真は日暮れから約30分間に撮影。プロ御用達の三脚・ハスキー3段に大判カメラ・トヨVX125を据え、ネガに分単位の露光をかける。大判特有のアオリを効かせ、手前から奥までピントがキリリとあっている。雑然としながらも一定のリズムを感じさせる戸建てや集合住宅、商業ビルなどの建物群。その屋上や壁に黄昏空の自然光とネオン看板の人工光が映り込む。黄、赤、紫など豊かな色の階調の中に、東京が隠し持つ淫靡さと猥雑さがにじみ出ている。甘い誘惑の魔手。見る人を引きずり込む魅力を放っている。
佐藤はかつて共同通信社の写真記者だった。が、内心に忸怩(じくじ)たる思いがあった。「仕事と自分の作品づくりが両立できない」。01年、安定した職を捨てた。抑えきれない写欲が、時にひとつの撮影地に10回以上も足を運ばせる原動力となり、作品の厚みを増す。屋根に雪が積もる1枚、遠景に富士山や大輪の花火が見える1枚などは執念の傑作だ。
撮影場所は知人を介して許可を得ている。大気が澄んでくるこれからの真冬が本番。写真家は大都会の非常階段を一段一段上っていく。そこには佐藤だけの“孤高“がある。(文化部 安原 直樹)
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