大きな無花果と棕櫚の樹が窓を覆い、強い日差しを遮っている。だが、掌のように裂けた葉のすき間から木漏れ陽が忍び込み、部屋は適度に明るい。静かな空間。ゆったりと流れる時間。此処は古い産院の待合室だ。
お産を控えた娘の付き添いで訪れる産院は、いつも温かい。お腹の大きい人や赤ん坊を連れた人だけではない。年配の人もちらほらとソファに俯いて座っている。赤ん坊、子ども、娘、妊婦、母親、祖母……そう、待合室には、あらゆる「女」がいて、まるで女の一生を眺めているような錯覚を起こす。
新生児がふにゃふにゃと泣き出すと、「ミルク作ってきてあげましょうか」と看護師さんがテキパキと動く。手際よく作られたミルクをもらって、赤ちゃんの声が止む。若い母親がおムツを換え始める。微かにご飯が炊けるような匂い--赤ん坊の排出物は優しい匂いだ。何もかもが懐かしく、私の中で少しずつ過去の育児の記憶がほどけ始める。ある時は産室から陣痛の声が聞えてきた。「こわくなっちゃう」と傍らで緊張する娘。「大丈夫。『案ずるより生むが易し』よ」と答えたものの、私の陣痛の記憶はかなりぼやけている。ふと、私のお産に付き添った母の姿と自分が重なる。母もやはり私のように心もとなかったのだろうか。
窓の無花果の葉を眺めながら娘が聞いた。「イチジクは無花果って書くけど、花は咲かないの?」
さて、どんな花だったろうか?家に戻って調べてみると、花は実の中に咲くとあった。私たちが食べるあのブツブツした果肉が、無花果の花だった。膨らんだあの実の中に花が詰まっていると知り、無花果の樹のある産院の情景が再び思い出された。産院自体が、まるで無花果の実のような気がしてくる。たくさんの命の花を内部に抱えて息づいているような。
赤ん坊だった頃。私は私が誰か知らなかった。自我が芽生えた時、私は私になった。そして、子どもを産んで私は母になった。その子が今度は子を産み、私は祖母になる。母になったのも祖母になるのも、私の意志だけでは決まらなかった。別の意志が働いて、私は私以外のものに成り得たのだった。だが、芯の部分には、やはり「私」がいる。外側の自分とは別の心細い顔をして、何をどうしたらいいのか未だにわからないままで。・・
【メモ】「空をかついで」石垣りん・童話屋
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