花の時期に青空が少なかったせいか、地震騒ぎで心が揺れたせいか、晴々とした花に出会えずに、桜は散っていった。桜が終わると、待ち構えていたように他の花々が咲き始める。咲く時の華やぎを「競うように」とか「咲き誇る」とか表現するが、今年の花は、自分の順番と分をわきまえて、慎み深く蕾を開いたような気がしてならない。もちろんこれは、勝手な花への思い入れ。花に問えば、「年々歳々相似たり」と答えるかもしれない。
花といえば、先月、友人から胡蝶蘭の鉢を頂いた。芯が紅色で花びらが薄桃色の六列の大輪咲き。正装した女王様を部屋に招き入れた気分だった。世話は簡単と言われたが、枯らさないようにと気を使う。先日、花の色が薄くなった気がして、液体肥料を与えて霧を吹いた。近所の蘭センターでは、モーツァルトを聴かせているのを思い出し、真似をした。モーツァルトが流れると、花は、微笑んだ。心なし色が濃くなって葉っぱがしゃんとしたような……。花が語るのではない、花の姿を借りて自分の心が浮き立つのだ。そう思ってはみても、やはり、花と思いを分かち合えた気分がした。
幼稚園の時、教室に飾る花を切って欲しいと祖母にねだった事がある。友達が先生に花を贈るのを見て、うらやましく思ったのだった。祖母は庭の紫木蓮の大きな枝を鋏で切って新聞紙に包んでくれた。無骨な枝の花束。暗く沈んだ色の紫木蓮の花を、幼い私はちっともきれいだと思わなかった。この花ではいやだと言えずに園に持って行き、先生に手渡した。先生は「きれい。いい色」と誉めてくれた。教室に飾られた花を見て、私は一日いい気分だった。どの花も美しい。今ならそれがわかる。花は草木の心。慎み深く、不変の強さを併せ持って咲く。
『あかりの花』は、中国の苗族(ミャオ族)の民話。働き者の貧しい若者トーリンが主人公だ。トーリンが山仕事をしていると、額から零れた汗が岩に落ち、そこにユリの花が咲く。彼はユリの花を家に持ち帰り、石臼に植えた。十五夜の晩、夜なべをしていると、蝋燭の灯心が揺らめき、赤い花が咲く。そして、中から美しい娘が現れた。同時にユリの花は消えてしまう。娘はトーリンの妻になり、ふたりは仲良く夜なべをし、畑を耕やす。やがて、トーリンの家は裕福になった。すると、彼はキセルをくわえてぶらぶら遊び歩き、肉やお酒を買ってきては飲んだり食べたり。娘はトーリンに言う。「もとのように畑に一緒に行きましょう。もとのように夜なべをしましょう」だが、トーリンは聞く耳を持たない。・・・
【メモ】「あかりの花」・中国苗族民話・福音館書店
本の贈り物のご意見・ご感想を
こちらからお寄せください。