二年生の国語の授業で、昔話を語った。テンポのいい筋立てと三度の繰り返しが心地よい「やまなしもぎ」という話だ。病気の母親に食べさせようと、山に梨を採りに行った太郎、次郎は、山姥の教えに耳を傾けなかったばかりに、沼の主に呑まれてしまう。だが、末っ子の三郎は山姥の言うことを素直に聞き、沼の主をやっつけて梨を手に入れたばかりか、兄さんたちも救い出して家に帰ってくる……。
何度も語ってきた話なので、「やまなしもぎ」は私の心の中に棲み付いている。「昔、あるところに……」と口を切った途端、物語が自然に湧きだし流れ出す。語る度に新鮮な感じを受けるのは、聞く子どもの顔ぶれが違うからだろうか。それとも語る私の心も変化しているのだろうか。
たいていのお話会は、語りっぱなしで終ってしまうことが多いが、今回は語りの後で、子どもたちの感想を聞くことができた。「本を見ないで話すなんてすごい」「私も覚えて語ってみたい」「昔の人の言葉が面白かった」。そんな感想の中で、ひとりの男の子がこう言った。「沼の主に太郎たちがげろりと呑まれる所が、好きでした。ちょっと怖いような……でも、怖くないみたいな気がした」。
戸惑ったような顔で伝えてくれたその感想に、私は思わず苦笑した。沼の主に呑まれる場面はいわばクライマックスだ。ちょっと迫力が足りなかったのかも、と反省したのだった。ところが、その日の午後、買い物に行く途中の坂道でその子の言葉が不意に蘇った。息を切らして自転車をこいでいる時に、昔話の深層について思い当たったのだった。「怖いようで怖くない」。この言葉はもしかしたら、深い意味を持っているのではないか。ひょっとして、沼の主に呑まれるという行為は、母の胎内に戻ること(胎内願望)を意味するのではないか。
丸呑みにするのが昔話の特徴だ。赤頭巾も三匹の子豚も七匹の子ヤギも、未熟な自我はみんな丸呑みにされる。丸呑みは、死ではない。安心な母の胎内への逃避を意味する。もし、呑まれる場面に心地よさを覚えたとすれば、子どもの感性は侮れないと思った。・・・
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