十二月になると「メサイア」のコンサートに誘われる。今まで断わってばかりいたが、今年はぽっかりと時間が空いた。心も動いた。思い切って出かける事にした。場所は上野の東京文化会館。家からは電車で一本だ。連れは石神井と埼玉に住む二人の友人だった。
「メサイア」は三時間もの長丁場だ。漫然と聴くのはもったいない気がして、歌詞のテキストをパソコンから引っ張り出した。ヘンデルの作曲とは知っていたが、ドイツ人の彼が英語で歌詞をあてた事を初めて知った。信者ではないが、私は時々聖書を開く。映画や小説の中に登場する聖句を確めたい時に。小説や映画は疑似体験に過ぎないが、使われた聖句を聖書でなぞってから物語を読むと、腑に落ちる事がある。言葉は体験(行動)と共にあるのだとつくづく思う。言葉があって行動が生まれるのか、行動によって言葉が発生するのかはその時々で違うのだろうが。
友人が取ってくれた席は、五階の最前列。目がくらむような高さから舞台を見下ろす席だった。崖っぷちに張り付いて谷底を覗くような気分。演奏が始まると歌声が谷底から湧き上がり、私の所まで昇って来た。時折目をつぶって聴く。すると、体がふわっと浮き上がって落下しそうな錯覚を起こした。第一部は救世主誕生の予言からクリスマスまでの物語。第二部は受難と贖罪と復活の物語。第三部は主への感謝と賛美の物語。クリスチャンならずとも第二部終盤の「ハレルヤ」の合唱は、必ずどこかで耳にした事があるだろう。
明るい調べと哀しげな調べが、呼応するように交互に繰り返された。光と影、谷と山、喜びと哀しみ、強さと弱さ……たくさんの正反対のものが心に打ち寄せて来た。その激しい抑揚の波間から浮かび上がって来た言葉がある。まったく思いがけない言葉だった。先日まで孫に向かって繰り返していた「いないいないばあ」だ。手で顔を隠す他愛ない遊びだが、人生とは「いないいないばあ」の繰り返しかもしれない。「いないいない」は、哀しみや苦しみの暗い谷間。やがて、「ばあ」と喜びの瞬間が来て光が満ちる。「いないいない」があるから「ばあ」が嬉しい。
赤ちゃん絵本の『いないいないばあ』は、赤ちゃんだけでなく、読んでいる大人も楽しくなる。そこに、生きる事の問いかけと答えが隠れているからではないだろうか。
絵本の中では、みんなが次々と「いないいないばあ」をする。クマやネズミのかわいい「ばあ」。キツネのちょっと恐い「ばあ」。動物たちにしてもらった「いないいないばあ」を、最後は人間ののんちゃんがする場面展開になっている。...
【メモ】『いないいないばあ』瀬川康男・福音館
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