
「夜になると人っ子一人いなくて。歩くのが怖いぐらいだった」。関連会社の新日鉄から幕張新都心のビル運営会社、幕張テクノガーデンに坂本敬社長(62)が移ってきたのは1998年。街にはバブル崩壊の後遺症が残り、点在する空き地が目立った。幕張と言えば「無機質」。そんな揶揄(やゆ)の言葉が既に定着していた。
「役人は2~3年で異動して消えていくが、企業はそうはいかない」。会長に就任した電波障害対策が目的の立地企業の集まり「幕張新都心まちづくり協議会」の活動を通じ、“民主導”でにぎわいを生もうと考えた。
「街のデザインはモノトーンを基調とする」という県企業庁の方針から、派手な看板などは制限され、灰色のコンクリートばかりが冷たい印象を放っていた。今では所々に並んだカラフルな草花が街に温かみを与える。協議会の呼び掛けで企業が植栽したプランターだ。
年3回の植栽活動への参加者は約500人に上る。水やりや除草などの手入れをするのも自分たち。「行政ではなく自分たちで汗を流して植えた花だから、後のケアにも力が入る」
街の「弱点」の交通問題では、JRなどへの要望活動を粘り強く続け、特急停車などの改善に貢献。千葉ロッテの観戦イベント、異業種交流会なども主催し、「つながりが希薄」と言われがちな幕張の企業間の交流を促した。「人々がお互いを知り、意見をどんどん言い合うようになれば、街づくりのパワーになる」
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住宅街、幕張ベイタウンのほぼ中心部に、住民らが設計・建設に積極的にかかわった公共施設がある。
2002年に完成した公民館などの複合施設「幕張ベイタウン・コア」。整備にあたり行政や住宅事業者でつくる研究会に住民らも参加し、住民独自の研究会も立ち上げた。ネット上も含め、さまざまな場で議論が繰り広げられた。
それらの声が反映され、コアには本格的な音響設備やピアノを持つ音楽ホールの設置が実現。若い母親らの熱心な要望も実り、当初計画の郵便局の代わりに子どもルームが併設された。
「あれだけのしっかりしたホールを持つ公民館は考えられない」。伊藤正昭・幕張ベイタウン自治会連合会副会長(71)は当時の熱気を振り返る。「住民たちは新しい街を自分たちでつくろう、という気概に満ちていた」
一方、人口が増え街が成熟するに従い、「かつてのような熱気は薄れてきた」と伊藤副会長は残念がる。全住民の合意形成を図るための一元組織の創設、多額の事業費が掛かるごみ空輸システムの存続問題など、街が取り組むべき課題も山積する。企業庁が事業収束する12年度末までに、これらの結論を出さなければならない。
「これまで以上に住民が団結することが必要」と、伊藤副会長は訴える。
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新都心の街づくりを進めてきたのは一義的には開発主体の企業庁。だが、今日のように多様な顔を持つ街へと成長してきたのには、地元の人々の「開拓精神」による貢献が小さくない。
「街づくりに住民意思が反映されやすいのがこの街の良さ。行政も応援してくれた」と、伊藤副会長は指摘する。企業庁も「地元からは貴重な意見をもらい、さまざまな活動に一緒に取り組んでもらった」と地元の活動を歓迎する。
今や活動人口は14万人。休日は買い物に訪れた若者たちが街を闊歩(かっぽ)し、平日夜はビジネスマンが「仕事帰りの一杯」で話し込む-。モノトーンの街が少しずつ、色づき始めている。
「街づくりは建物やインフラを作るだけではない。10年、20年の仕事」。街開きから20周年を迎え、坂本社長は継続的な人の力の重さを改めて感じている。
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