房総の作家

■プロフィール
中谷順子(なかたに・じゅんこ)
  詩人、文芸評論家。房総文化懇話会会員。元千葉県詩人クラブ会長。詩誌『覇気』主宰。詩集に『返信』『白熱』『破れ旗』、著書に『房総の作家①②③』など多数。千葉市在住。


ありえない存在 浅田次郎(6)


『天国までの百マイル』。主人公の安男は病気の母を車に乗せて安房の病院まで100マイルの道を走り、愛の奇蹟を起こす

 処女小説集『鉄道員(ぽっぽや)』(1997年)の単行本の帯に書かれたキャッチ・コピーは「あなたに起こる やさしい奇蹟。」そのコピー通りに男の優しさと、そこから起こる小さな奇蹟が描かれている。

 魂まで疲れ果てる索漠とした現代社会で、失われてしまった人間の優しさを取り戻させ、心の一灯を点すのが、浅田のどの作品にも共通する美しさだろう。

 『鉄道員』文庫本の「あとがきにかえて」のなかで、浅田自身がこのキャッチ・コピーにふれて次のように記している。

 私は本来、神仏から授かる御利益や功徳を信じない。占いも運命も霊的存在も、すなわち科学的な説明のつかない事象は何ひとつ信じないたちである。甚だ夢を欠いた、小説家にあるまじき性格ではあるが、小説家になりたいと念ずるあまり「神も仏もない」人生を歩んだ結果なのだから仕方がない。/しかし、たゆまざる努力や真摯な懊悩のもたらす「奇蹟」は信じていた。少くとも「奇蹟的結果」の存在は信じていたのである。

 どう考えても才能らしきものの見当たらない私にとって、現在かくある小説家という職業そのものが奇蹟であった。いわば大空への飛翔を夢見た少年が、がむしゃらに徒手空拳を振り回すうちに、鳥になったようなものである。

 そうした内なる奇蹟が、誰の上にも起こりうるということは知っていた。

 (「奇蹟の一巻」より)

 前文には浅田が自分の才能を卑下している部分もあるが、彼が若い頃から小説家を夢見て真摯に頑張り、小説家になる奇蹟を信じてきたことがわかる。

 『天国までの百マイル』(朝日文庫・2000年)大山勝美氏「解説」によると、浅田は「二十代半ばまで、鴎外や鏡花、谷崎などの作品を筆写し、一日六時間は読み書きのために費やしたという」。この言葉は本人の告白によるのだろう。......


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