酒々井町に住んでいた押尾孝氏(故人)は、葉舟が遠山村(現・成田市)で文筆活動を行っていたときの高弟。
葉舟は印旛教育研究会の国語や民俗学の指導をし、下総郷土談話会を作り、『七葉樹』(『七葉会』)や『さそり』を発行していた。孝氏は、戦前・戦後を通して『七葉会』や『さそり』の主要メsンバーとして、葉舟の文学活動を支えた人物。葉舟の親しい文人たちとも交流があった。
孝氏は明治38年(1905)に酒々井で生まれている。明治16年生まれの葉舟より22歳下。葉舟と出会ったときはまだ青年だった。
『酒々井町史』の第七節文化・277ページに紹介されており、それによると、国鉄車掌試験に合格して両国車掌区勤務を振り出しに、鉄道マンとして長く過ごされたことや、葉舟の指導により、詩、短歌、随筆、民俗学や郷土史など幅広く研究を続け、文学誌や新聞に発表したりするかたわら、旅と山登りについても造詣が深かったことなどが書かれている。
短歌を『燦光(さんこう)』『金鈴』『橄攬(かんらん)』などの歌誌に発表した。おそらく葉舟が紹介したのだろう。
昭和11年11月11日付孝氏宛の葉舟書簡は便せん8枚もの長い手紙で、その終わり部分には「『さそり』を母体として諸君が「進出」される事も、私の一つの祈りでした。これを少しでも実現していけるやうに努力したいと思いますよ。中央へ、そして社会的に鮮明な仕事へ。」と書かれている。『さそり』はメンバーたちが「千葉毎日新聞」寄稿していたが、載せてもらえなくなり、その後発行された手書き回覧雑誌。そのような粗末な同人誌だったが、葉舟は「中央へ、そして社会的に鮮明な仕事へ」結びつけようと気概をもって発行していたことがわかる。メンバーに大きな期待を寄せていた。孝氏はその中でも、もっとも期待された一人だった。・・・