葉舟が三里塚御料牧場の一隅・遠山村駒井野に住んで一月ばかりたった大正13年春、高村光太郎は葉舟を訪ねて、三里塚農場に遊び、「春駒」を詩作している。葉舟がまだ開墾小屋に住んでいたころだろう。
現在の成田市三里塚記念公園・貴賓室前には光太郎の詩碑が建ち、光太郎のペン文字原稿の「春駒」の詩文が、ブロンズパネルに浮き彫りにされている。
春駒
三里塚の春は大きいよ。
見果てのつかない御料牧場はうっすらもうあさ緑の絨毯を敷きつめてしまひ、雨なら煙るし露ならひかるし、明方かけて一面に立てこもる杉の匂に、しっとり掃除の出来た天地ふたつの風景の中へ春が置くのは生きている本物の春駒だ。すっかり裸の野のけものの清浄さは、野生さは愛くるしさは、ああ、髪にも臭い生き物の香を靡かせて、ただ一心に草を食む。かすむ地平にきらきらするのは尾を振りみだして又駆けるあの栗毛の三才だらう。のびやかな素直な初々しい、高らかにも荒っぽい三里塚の春は大きいよ。(詩碑文をベタに記す)
口語体詩文から若草の生えた牧場の美しさ、のびやかさ。そこで育つ若馬の健康的な躍動、野生的な匂いなどが伝わってくる。
詩碑は昭和52年5月に建立され、裏面に草野心平の太い文字で、「大正十三年春、高村光太郎がこの地に生涯の友水野葉舟を訪い三里塚農園に遊んで、「春駒」を作った…」ことが記されている。詩は朝日新聞に掲載された。
葉舟が三里塚に住む前年(12年)に関東大震災が起こっている。家屋の壊滅・焼失により、社会不安も高まった。
葉舟と同じころ、遠山村に帰農した人物に木村荘太がいる。荘太は遠山村駒井野に住んだ葉舟より早く、大正12年に遠山村久米に帰農している。時期から見て、関東大震災の影響があったと考えてよいだろう。坂本哲郎『房総の文学風土』によると、荘太は田園生活のかたわら原稿を書き、「都新聞」の文芸欄に寄稿したり、養鶏専門誌に寄稿していた。
自然とともに生きようとする荘太や葉舟の開墾生活は、新しい価値を見出す生き方として、文学者などから注目されていたと考えられる。・・・