房総の作家

■プロフィール
中谷順子(なかたに・じゅんこ)
  詩人、文芸評論家。房総文化懇話会会員。元千葉県詩人クラブ会長。詩誌『覇気』主宰。詩集に『返信』『白熱』『破れ旗』、著書に『房総の作家①②③』など多数。千葉市在住。


葉舟と高村光太郎 水野葉舟(1)


水野葉舟。明治37年、赤城山登山の時の写真(『新潮日本文学アルバム・高村光太郎』より転載)

 水野葉舟(みずのようしゅう・本名水野盈太郎・みちたろう)が生涯の友となる高村光太郎と出会うのは明治34年、18歳のころ。

 1883(明治16)年4月9日に東京下谷仲御徒町に生まれた葉舟は、九州に移転して中学を卒業。『文庫』『よしあし草』『新聲』等に詩歌を投稿したが、やがて上京し早稲田大学に入学。短歌の世界に新風を巻き起こしていた与謝野鉄幹の新詩社『明星』に加わり、「蝶郎」の名で詩歌を発表する。

 一方、光太郎は東京美術学校彫刻科で勉強しながらも文学に興味を示し、同級生と回覧雑誌を発行したり、俳句を投稿したり、始めはいかづち会の短歌に引かれ添削をうけるが、新詩社『明星』に加わり、「篁碎雨(たかむらさいう)」の名で短歌を発表していた。二人の存在はきわだった文才を放ち、師の鉄幹も力を入れていた。

 ともに明治16年生まれで、ともに東京下谷で幼年を過ごした才能豊かな二人が親しくなるのは当然の成り行きだっただろう。光太郎は葉舟の人柄に好感を持ったようだ。光太郎はのち「こうたろう」と名乗るが、本名は「みつたろう」で、葉舟の本名「みちたろう」とも近い発音。そうしたことも二人を近づけたのかもしれない。

 明治35年に窪田空穂(うつぼ)が雑誌『山比古』を創刊すると、葉舟は同人として参加。

 明治37年には光太郎はしばしば赤城山に滞在しており、新詩社の一行を案内したりした。葉舟が同年に赤城山登山をするのは光太郎に誘われたからだろう。着物の裾(すそ)をからげ、帽子、脚絆、草鞋(わらじ)、風呂敷包みにこうもり傘を持ったいでたちの、赤城山登山の若い葉舟の写真が、『新潮日本文学アルバム・高村光太郎』に載っている。・・・


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