重吉が詩集『秋の瞳』を出版した大正14年は、普通選挙法施行の年で、農民・労働運動が激化された時代。詩の世界でも民衆諸派が停滞し、その反撃として芸術性を重視した日夏耿之介らの活動も下火となり、大正12年の関東大震災は旧秩序の崩壊を活発化させ、アナーキズムやダダイズムを含むアヴァン・ギャルド芸術や、エスプリ・ヌーボーを出現させてくる。北川冬彦の『三半規管喪失』、堀口大学の訳詩集『月下の一群』が刊行されるのもこの年である。
同人誌も次々に出版され、13年には安西冬衛・北川冬彦らにより『亜』が創刊され、14年には、草野心平の『銅鑼(どら)』が創刊されている。新詩法にのっとった詩が次々発表されていく時代だった。
重吉もまた、ロマンチシズムから象徴やイマジズム、散文的文脈など、詩法を次々に変え、清澄な表現、鋭い感覚、簡潔な文体、信仰に支えられた明晰な表現力などを身につけている。
『秋の瞳』について『萬朝報』新聞の新刊案内に、「純真で清澄なリズムが深く読者の心をとらへずには措かぬ、愛すべき詩集」という評(大木篤夫との説あり)が載っている。
また『日本詩人』『詩神』でも紹介され、『日本詩人』9月号の「七月八月詩壇」において勝承夫(よしお)は、考えることそのものを表現した書法や、自己のままに素裸で歌ってゆこうとする立場、むだを省いた緊制された美などをあげ、「とにかく八木君は単に詩人の詩人であると云ふよりも哲学的に人生を窮明してゆこうとするところに私は非常に心をひかれた。歌うばかりの詩人はもう吾々の現実からは逐はれてもいい」と理解を示すが、自分の生活倫理をはっきり握るまでに成長してないと批判もしている。...