アトリエ焼失後、光太郎は宮沢賢治の弟・清六方に誘われるまま仮寓するが、宮沢家が戦災にあったため、一時花巻町の中学校長宅に避難していた。そのころに光太郎が寺田弘氏あてに出した葉書がある。
いつぞやは御来訪忝く存じました。八月十日の花巻空襲で宮沢氏邸も全焼。小生又々罹災。…略…そのうち太田村といふ山間地方に丸太小屋を建てるつもり。追々その地に最高文化の部落を建設します。十年計画。戦争終結の上は日本は文化の方面で世界を圧倒すべきです。…
(寺田弘氏宛、光太郎葉書昭20・8・19付)
文中に「いつぞやは」とあるのは、光太郎のアトリエ炎焼時に寺田氏が駆けつけたことを指すのだろう。文章により、光太郎は太田村に住むことに、文化の村の壮大な夢を抱いていたことがわかる。
寺田氏(現・船橋在住)は、のちに岩手県花巻郊外の太田村山口に光太郎が住んだ山小屋を訪ねている。光太郎は昭和27年10月に東京に戻るが、寺田氏が山小屋を訪ねたのは、光太郎が戻ったあとのこと。
寺田弘詩集『三虎飛天』には、山小屋を訪ねたときのことが、「切り抜かれた光」の詩に描かれている。
冒頭は「兎がいて…」から始まり、「三畳あれば寝られますね。これが水屋。これが井戸。山の水は山空気のやうに美味」の光太郎の詩「案内」の言葉がとられている。
文化の村の意気込みで移り住んだ山小屋だったが、山小屋で光太郎は彫刻などの造形制作をすることはなかった。ただ光太郎の没後、囲炉裏の中から「野兎の首」の原型が発見されている。「兎がいて…」は「野兎の首」を頭に入れて書いているのだろう。
詩文によると、掘立小屋に便所があり、その便所は暗く明かりはなかったが、杉戸に彫刻刀で切られた「光」の一文字が彫り抜かれ、その「光」だけが便所の暗闇を照らしていたという。「光」が明りであるとともに、光太郎の名と重なることを思えば興味深い。...