大正3(1914)年、福島県に生れた詩人・寺田弘氏は、現在95歳の長老だが、高村光太郎と親交のあった人物。
寺田氏は若干16歳で詩誌『中堅詩人』を創刊し、佐藤惣之助などの寄稿を受け、翌年には初詩集『骨』(昭和6年・福田正夫の序文付)を自費出版。『中堅詩人』には白鳥省吾や西条八十が詩や批評を寄せるなど、詩壇に確固たる地位を築きあげている。
また、佐久間利秋と1932年版『福島詩人選集』を編集し、草野心平を始め多くの福島県詩人の参加を得る。中学卒業時に詩誌『響銅』を佐久間と創刊。その後『響銅』4号を第3次『北方詩人』として復刊し寺田氏は編集発行人として活躍する。萩原朔太郎や伊藤新吉などとも交流。寺田氏は『北方詩人』への寄稿を宮沢賢治に頼み、詩「産業組合青年会」が届くが、賢治はまもなく病死。賢治最後の詩作品となった。
大学卒業後文部省に勤めた寺田氏は出征した大滝清雄の詩を載せようと詩誌『虎座』を創刊。後に大滝と共に傷病兵に詩の指導をし、『傷痍軍人詩集』を発行。発行に際し光太郎を訪ねて序文をもらい、交流が始まっている。昭和18年『虎座』7、8号には光太郎も参加。
ちなみに光太郎は多くの若手詩人の序文や詩集の装丁をした人物。草野心平詩集『第百階級』の序文や、中原中也詩集『山羊の歌』、『宮沢賢治全集』の装丁も光太郎がしている。
昭和20年4月13日夜、空襲で光太郎のアトリエが焼失したとき、近くの駒込林町に住んでいた寺田氏は駆けつけ消火を手伝っている。
寺田弘詩集『三虎飛天』(平成17年・青樹社刊)に収録されている「沈香の人」は光太郎のアトリエ焼失を描いたもので、「煙の中を探した/詩人は畦道に立っていた/ぽつんと塑像のように」と、焼け落ちるアトリエを見つめる光太郎を描写している。・・・