「智恵子の切抜絵」(『智恵子抄』収録)で光太郎は、智恵子が折紙で制作した切り絵を「私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない」と書いている。
智恵子は昭和11年12月から、粟粒性肺結核で没する同13年10月5日まで、南品川のゼームス坂病院で切り絵を製作。その点数は千数百枚にも及んでいる。目覚めると制作し、狂気と戦い続けた意志の強さに驚かされる。
細かい細工と、飛びぬけたデザイン感覚、そして色彩が鮮やかで非凡な才能によって作られた作品とすぐにわかり、見る者の目を奪う。
切り絵作品群は、アトリエが空襲に遭ったとき、光太郎は自分の作品を残したまま、智恵子の切り絵とわずかな詩篇と彫刻刀のみを持ち出して守っている。さらに切り絵の芸術性を高く評価する光太郎によって、山形、花巻、取手と分散されて保管され戦火を免れた。
切り絵作成の経緯についてだが、「智恵子の切抜絵」によると精神病者に簡単な手工が良いと聞き、平常の智恵子が好きだった千代紙を光太郎が病院に持っていったのが始まりだそうだ。大変喜んだ智恵子は、最初は折鶴や紙燈籠などを作っていたが、あるとき見舞った光太郎に一つの紙包みを渡して、見るようにうながした。
紙包みには鋏(はさみ)で切った模様風の美しい紙細工が大切そうに仕舞ってあって驚いた。それは「まつたく折鶴から飛躍的に進んだ立派な芸術品であつたからである。私の感嘆を見て智恵子は恥かしさうに笑つたり、お辞儀をしたりしてゐた」という。・・・