大正10年4月、重吉は兵庫県御影(みかげ)師範学校に英語教師として赴任。赴任後から、のち夫人となる島田とみ子との文通が始まっている。
滝野川の女子聖学院高女3年の編入試験を受けるとみ子の、勉強をみて欲しいと友人から頼まれた重吉は、運命の人と出会ったのだった。とみ子は見事合格を果たしている。
恋に燃え上がった重吉は、高等師範学校の先輩で東大物理学研究所の内藤卯三郎の仲介により強引に婚約にこぎつける。このとき、とみ子は肋膜炎にかかっていた。重吉の実家では、重吉に、実家との断絶を求めたと言われる。とみ子は聖学院高女を中退し自宅で静養。
もどかしさを感じた重吉は急いで上京し、とみ子の病は「自分が教育しながらなおしてみせる」と強引に引き取って、大正11年7月に形ばかりの結婚式をあげている。重吉24歳、とみ子18歳だった。
重吉が歌や詩を書き始めるのは、とみ子への恋心を抱いた大正10年頃。結婚後は、詩と信仰に打ち込む精進の日々となった。大正12年には、さまざまな用紙に書いた初期詩稿をまとめ、画用紙の表紙に絵具や墨で表題とカットをつけリボンで綴じ、同6月までに18冊を編んでいる。以後詩を原稿用紙、書道用半紙などに書き、同じ用紙の表紙をつけ表題を付した詩集となっていく。
抒情詩や民衆派、口語自由詩、象徴詩風など、当時の多様な詩型を模索し、取捨選択しながら、信仰への渇望とおのれへの糾問、外界への不安など、人生を追及した重吉独特の詩作品が生み出されていく。
結婚の翌年には最愛の長女桃子が生まれている。重吉の詩には、桃子を詩にした作品が多い。「赤ん坊がわらう」の詩も桃子を詠んだもの。
赤ん坊がわらう
赤ん坊がわらう
あかんぼがわらう
わたしだってわらう
あかんぼがわらう
(詩集『秋の瞳』に収録)
大正14年1月には長男陽二も生まれ、夫婦は幸せに充ちた生活だった。しかし、その反面、教師の職務には失望し、孤独を味わうようになっていく。・・・