重吉が東葛飾中学校に赴任したばかりの大正14年4月に、兵庫県御影師範学校時代の生徒・門脇清さんに送った葉書がある。
「いよいよこちらへやって来ました。桐の疎林と、松の密林とがある。原がある。竹林がある。麦畑がある。菜畑がある。巨きな沼がある。はてしない空がある。はてしない想ひがある。千葉県立東葛飾中学校 八木(4月27日付葉書)」
『柏と詩人八木重吉』に、とみ子夫人(重吉の死後、歌人・書道家で有名な吉野秀雄に嫁ぐ)が、柏時代の思い出を載せている。
…三万坪の大きな原っぱを前に、新築の小さな家が四軒並び、二軒目に私共は愛の燈を灯し、大自然の美しい原っぱは四季折々の風情に野の花を咲かし、虫の声は家々を包み、時には大きな虹がかかり、実に恵まれた境遇でした。この一年間は私共にとりまして最も充実した年でした。
(「八木重吉の妻として柏の里 吉野登美子」)
重吉は林や原や畑や沼や空の美しさ、そして素朴な野の生活に心躍る気持ちを抱いていた。夫人にとっても美しい原が希望だったことがわかる。
東葛飾高校の一回生・岡茂雄さんは「授業が終ると先生は、よく松林や原っぱを歩いておられた」「萩の花が点在し、キリギリスの鳴き声が聞こえ、低い草木がどこまでも広がっていた」という。
この一帯は、小金が原と呼ばれた一角で、松林やくぬぎ林があり、江戸時代には徳川将軍の鷹狩りや、幕府直轄の放し飼い馬の放牧地として、野馬土手が東西に走り、小鳥が囀り、一面の野原が広がっていた。・・・