智恵子が保養していた九十九里浜の真亀納屋について、光太郎は「九十九里浜の初夏」で次のように述べている。
真亀といふ部落は、海水浴場としても知られてゐる鰯の漁場千葉県山武郡片貝村の南方一里足らずの浜辺に添つた淋しい漁村である。九十九里浜は千葉県銚子のさきの外川の突端から南方太東岬に至るまで、殆ど直線に近い大弓状の曲線を描いて十数里に亘る平坦な砂浜の間、眼をさへぎる何物も無いやうな、太平洋岸の豪宕極まりない浜辺である。その丁度まんなかあたりに真亀の海岸は位する。(『智恵子抄』)
オゾンあふれる九十九里浜のきれいな空気や智恵子の好きな防風林、そして母や妹、姪(めい)という気心の知れた人々との生活が、智恵子を回復へと導いてくれることを光太郎は願っていた。智恵子の精神病だが、その兆候が45歳ごろの更年期からあり、比較的おとなしい症状から考え、今でいう認知症だったのではないだろうか。
智恵子が真亀納屋の田村氏別荘(斎藤家)にいたときにも持ち続け、手離さなかった光太郎筆写の『般若心経』が、新潮日本文学アルバム『高村光太郎』に掲載されている。表装は智恵子がしたという。『般若心経』を読んでいたということは、正気と狂気を行き来する状態にあったと考えられる。
九十九里浜に智恵子を見舞い、彼女を客観的に眺め得たことが、光太郎にとって自分の動揺をみつめる大きな時間となった。浜で遊ぶ智恵子の印象は光太郎を揺さぶり、のちに出版される『智恵子抄』の代表作「千鳥と遊ぶ智恵子」を生むことになる。
父・光雲は光太郎が九十九里を訪れていたときに死亡、死に目に会えなかった。同年12月末には斎藤家にも智恵子を置くことができなくなり、やむなくアトリエに連れ戻っている。
斎藤家は智恵子が去ったあと、玩具工場経営のため片貝に移転。その後、斎藤家が仮寓していた田村氏別荘の所有者が変り、真亀川を渡った北今泉に移築され、平成11年に解体された。