昭和9年に光太郎の父・光雲の病状が悪化。家中で奇声を発し歩き回るなど、妻・智恵子の病状に困った光太郎は、無理を承知で智恵子の母せんが寄寓する、九十九里浜・真亀納屋の斎藤家(智恵子の妹セツの嫁ぎ先)に、智恵子を預かってくれるよう頼んだ。
智恵子が真亀納屋の斎藤家(田村氏別荘)に移ったのが昭和9年5月で、父・光雲が没するのが同年10月だから、光太郎としては困り果てての処置だったのだろう。
智恵子の面倒は主に母せんと、姪の春子によってなされたという。
光太郎は真亀納屋に智恵子を見舞ったときを、詩集『智恵子抄』(昭和16年刊)の「九十九里浜の初夏」に、次のようにつづっている。
私は昭和9年5月から12月末まで、毎週1度ずつ九十九里浜の真亀納屋といふ小さな部落に東京から通つた。頭を悪くしてゐた妻を其処に住む親類の寓居にあづけて置いたので、その妻を見舞ふために通つたのである。(「九十九里浜の初夏」より)
光太郎は両国駅から、列車で房総東線(現・JR外房線)の大網駅まで行き、バスに乗って水田を二里あまり走り、今泉の四辻茶店でおりて一休みし、片貝行きのバスに乗り換えて真亀納屋の田村氏別荘には午後の2、3時に到着した。そのとき1週間分の薬や妻の好きな果物をつめたリュックを背負っていた。「防風林の中の小高い砂丘の上に立ってゐて、座敷の前は一望の砂浜となり、二三の小さな漁家の屋根が点々としてゐるさきに九十九里浜の波打際が白く見え、まつ青な太平洋が土手のやうに高くつづいて際涯の無い水平線が風景を両断する」と田村氏別荘から見える風景を描写している。
2人は砂丘づたいに防風林を散歩。砂に腰を下ろして空気のうまさを満喫した。・・・