柏の県立東葛飾中学校(現・県立東葛飾高校)で教鞭をとった重吉と、その家族(妻とみ、長女桃子、長男陽二)が住んだのは、中学校前の流山街道の南側に1本入った道沿いに建った中学校教員住宅で、住所は東葛飾郡千代田村豊四季番外42(現・柏市旭町4丁目6番地または7番)。校舎竣工に伴い教員住宅4軒が新築された。
重吉の妻・吉野登美子(のち吉野秀雄と結婚)が思い出を記した著書『琴はしずかに-八木重吉の妻として』(昭和51年彌生書房)には、中学校に近い方から「一軒目が国語教諭の鷲見先生、その次に私たち、三軒目は教練の松山先生、四軒目は書道を教えながら事務を兼ねておられた青木先生と並んで入った」と、当初の教員住宅について証言している。中学校に近い方から2軒目が重吉の家だった。
当時柏駅の西側には人家はあまりなく、教員住宅だけが4軒たっていた。しかし、現在は教員住宅はなく、住宅前の道路区画も大幅に変更されているため、当時の住宅の面影はない。
現在、東葛飾高等学校脇に八木重吉詩碑が建ち柏市教育委員会の立看板が立っていて、その左下に「八木重吉旧居跡」として、地図上に太黒で当時を記した地図が描かれている。これは『柏と詩人八木重吉』より引用したもの。当時の井戸だけが今も残っていて、地図にはその場所も記している。
重吉も家族もこの井戸を使用していたのだろう。
前記の地図には、教員住宅の南側には若い桐林があり、下は麦畑になっていたこと。桐林や麦畑の左右には畑があり、畑の西側には松や雑木林、東側は高い林であったこと、野田線が開通していたこと。流山街道の北側は3万坪の原っぱになっていたことなど、当時の状況を詳細に記している。
昭和4年4月に松井天山が写生した柏町鳥瞰図は柏駅の東側に広がった町並が中心で、駅の西側の林に囲まれた東葛飾中学校が描かれている。当時正門は西向きだった。重吉が教鞭をとったのは大正14年から15年で、写生はその5年後のものだが、常磐線、野田線ホームが階段のある屋根付陸橋で結ばれ、賑わいが伝わってくる。・・・