道化のような自画像

--人間の悲喜劇をみつめる--

  酒井さん、本紙文化欄連載「わたしの徒然草」に最初に目を通す者として、その第二弾『オレ、たそがれ』(千葉日報社、二〇〇〇円)の出版を心からお祝いします。尊敬置くあたわざる深沢幸雄さんの銅版画「黄昏銀座」が表紙を飾り、さぞ満足のことでしょう。

 確か、第六十八段「兄を迎えに行く盆」だったか、原稿用紙に大きな水の滴りが点々と残り、酒井さんが逝きし人をしのび、落涙しながらエッセーをつづられた消息を知りました。青春の放埓(ほうらつ)を尽くし、「親族会議の結果、仕置きとして精神病院に入れられるようになった」時から酒井さんを「おじちゃん」と敬語で呼び、陰に陽に支援を惜しまなかった第一の理解者を失われた悲しさ、悔しさ、寂しさが下る涙の跡とともに伝わってきました。

 「オレ、だめかも」の第一段から「いまこそ千葉昔話」の第百四十二段まで、随筆家・酒井さんは人の世の多くの矛盾や相克を広い胸で受け入れ、そこに人間の悲喜劇を見つめています。テーマも、日常雑感から、教育、文学、音楽、民話、歴史、身近な草木虫魚まで多岐にわたり、「人間のことで興味のないことはない」と言わんばかりです。軽快な身のこなしで万般に触手を伸ばし、拘束を解かれた言葉が自由の別天地をつくっているのはひとえに酒井さんの筆力のゆえです。

 中世の隠者、兼好法師は『つれづれ草』で「久米の仙人の、物あらふ女のはぎの白きを見て通をうしなひけん」ことに共感を示していることから明らかに世俗への関心もおう盛でしたが、若年の日、恋人とエビ天一本のいさかいから心中を図り、独り印旛沼に飛び込んだという男女の機微に通じた酒井さんの恋愛論は手放しで面白かった。第十七段で「私は年齢的に高齢者学級だが、恋する熱誠は少年の心である。したがって失恋の痛みも少年の痛みである。苦しくて、悲しくて、うっかりすると涙が出たりする。何もする気が起こらず、ぼんやりとして、ビールでも飲んで日を送る」と知性が求愛衝動に負けてしまう悩みや名利の欲求を覆い隠さず描写しています。「恋愛関係に補欠はない」(第二十七段)、「恋は、寿司屋でふられたから、家に帰って家庭料理でも食べよう、といった食い意地の問題ではない」(第三十九段)など名言を挙げるときりがありません。

 それにしても、深沢さんの孤影を漂わせるメランコリックな「黄昏銀座」の人物は何者でしょうか。裏表紙の銀座の雑踏に正装してたたずむ陽気で〈ダンディー〉な酒井さんとはどんな関係にあるのでしょうか。二人の共通点は、その〈道化性〉に現れています。酒井さんは自らを太宰治になぞらえ、「道化、おべっか、そして脂汗を流すサービス精神が、太宰の、人間に対する最後の求愛手段であったようだが、私の場合にも、低次元であっても、同じ思いがあった」(第九十四段)と〈道化〉への親愛の情を隠しません。

 人類学者の山口昌男さんは道化を「哄笑を介して、こわばった現実感覚を武装解除し、人をして混沌に直面させる技術」と定義しています。いわば、日常生活の秩序をカーニバル的な時空の中でひっくり返し、新しい文化価値を引き出す創造者です。道化は愚かで、間抜けのように見えますが、見捨てられた材料を組み立て再生させる文化転換者・翻訳者であり、善き人たちを至芸で楽しませ、祝福の言葉も忘れません。ペンで、こけつまろびつの劇を演じる酒井さんの独壇場です。

 第二十九段「『誰そ彼』に思う」では『万葉集』の歌を引いて語源を探索し、親兄弟の顔が浮かんでくる〈たそがれ〉の響きをかみしめています。「ミネルバのふくろう(知性の女神)は、たそがれ時になると飛び始める」とは哲学者、ヘーゲルの言です。『八代集』など古典詩歌や近代文学にも明るく、巧みにさばいてみせる酒井さん。〈無常迅速〉、誰も心身の衰えは避けられません。いよいよ老年の成熟した知恵を磨かれ、ピエロのような軽快な身ぶりで境界を自在に横断し、普通の人々に生きる喜びを与え、幸せな気持ちにしてくれるエッセーを書き続けてください。
(文化部・河野良恒)  

 

 ◇さかい・としお 市原市出身。千葉市在住。
  雑誌編集者、テレビライターを経て、作詞・作曲家、歌手活動も。
 著書に『ぶっつぁるべえもじな』『わたしの徒然草・田舎の文化人』など。